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田畑 政治

1898年浜松に生まれ、朝日新聞の新聞記者として活躍したのち、朝日新聞東京本社の代表取締役就任。同時に日本水泳連盟や日本体育協会などの要職に就く。水泳選手の育成にも尽力。長い道のりを経て戦後の日本にオリンピックを誘致した功労者。亡くなるまで(享年85)水泳に限らずスポーツ振興に生涯を捧げた。まさに水泳ニッポンの父・タバタマサジ。
大河ドラマでは後半の主人公として阿部サダヲが演じる。(大河ドラマ・井伊直虎の際は徳川家康役を演じた)

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田畑氏ゆかりの地
浜松・浜名湖周辺MAP
浜松・浜名湖周辺MAP
田畑氏ゆかりの地については下記よりご覧ください。



まる5 田畑家別荘跡 (弁天島駅徒歩5分)

別荘跡
(舞阪から見た弁天島の風景)
別荘跡看板

無人島だった弁天島に明治22年に弁天島海水浴場が開設されて以降、浜松の資産家たちは別荘を建てるようになった。浜松有数の資産家だった田畑家も同様で弁天橋のたもとに建設。田畑氏は体を鍛えるため、幼少期からこの別荘に泊まって泳力を養った。
(別荘は現存しておらず、弁天島海浜公園東側ゲートに案内看板がある。)

明治・大正初期の海水浴場は「12歳以上の男女混浴セサルコト」と男女混泳が禁止されていた。

インタビュー



まる6 弁天島茗荷屋旅館 (弁天島駅徒歩4分)

弁天島茗荷屋旅館 弁天島茗荷屋旅館看板


田畑氏が進学した浜松中学校の水泳部が、弁天島で水泳訓練を行っていた際の合宿先。田畑氏は水泳大会があると茗荷屋に宿泊していた。茗荷屋旅館の子息・堀江耕造氏は水泳部の中心人物で田畑氏の大先輩。水泳部の本部は舞阪町の宝珠院に置かれていたが、参加者が増えたため茗荷屋に移転した。
(旅館は現存しておらず、別荘跡から西隣3軒目に位置していたと思われる弁天島海浜公園内東側に看板がある。)

田畑氏は水泳大会の後に茗荷屋に寄って「口角泡を飛ばす」と言われるほど議論に熱中していたとの事。

インタビュー



まる7 弁天島100mプール跡 (弁天島駅徒歩5分)(楽園プール) 

弁天島100mプール跡 弁天島100mプール跡看板


浜名湾游泳協会は十分な練習ができ、全国大会が開催できるプールを熱望していた。そこで協会幹事であり浜松の資産家・長谷川鉄雄氏が西之島浦にある別邸東の所有地(現在の児童公園辺り)に1921年に縦100m、横30mの塩水プールを建設。同年の全国競泳大会は大阪の茨木中学校に優勝をさらわれたが、1922年には田畑氏率いる浜名湾勢が猛練習の末、念願の全国制覇を果たした。
翌年、弁天島土地(株)が宝塚遊園地の施設を参考に100mプールを中心とする「弁天島楽園」という娯楽施設をつくった。300坪余りの大浴場、5,000人収容休憩場などがあった。

当時の浜名湾では古来の流派が主流であったが、プールもあり早くからクロールをマスターしていた茨木中学校に連敗。これではいかんとクロールを導入したそうです。

インタビュー



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田畑政治氏の「ゆかりの地」案内ガイドは舞阪町観光協会までお問合せください




浜松・浜名湖には「パワーフード」と呼ばれる美味しくて元気が出て
健康に良いと言われる食べ物が豊富にあります。

乙女園

浜松は健康長寿日本一※になっています。かの徳川家康が浜松城で過ごした17年間に戦が22戦(7敗2分け)あっても粘り強く生き永らえた要因は、地元の食にあったとも言われています。
「田畑政治ゆかりの地」の近くには美味しい料理を提供するお店が沢山あります。
ゆっくり食事をしながらのゆかりの地めぐりをお勧めします。
※20大都市の健康寿命トップ5(2016)

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